今日は南山手地区の歴史文化探訪である。1858年(安政5年)、5ヵ国修好通商条約が結ばれて函館、新潟、横浜、神戸、長崎の5港が開港されることになった。それに伴い、外国人のための居住地域の開発が必要となり居留地が造成されることになった。南山手地区は東山手地区と共に居留地として開発された地域である。当時、南山手地区は主に住宅地として使用された。港を見下ろす眺望の良い丘の上に、大浦天主堂や日本最古の木造洋館であるグラバー住宅などが建てられた。幕末から明治にかけての貴重な洋風住宅や旧居留地時代を偲ばせる石畳や煉瓦塀などが残っている地域である。
集合場所は南山手の海岸サイドにあたる松が枝である。港に近い松が枝地区はホテルや領事館や銀行が立ち並んでいた場所である。今は当時のホテルや領事館はない。集合場所のすぐ前には大きな中華飯店が立っている。この店は、長崎ちゃんぽん発祥の店と言われる四海楼である。明治時代、四海楼の経営者である陳さんが 苦学している中国留学生に安くてボリュームのある栄養満点のちゃんぽんを作って提供したところ大変評判となり、たちまち長崎の中華街に広まったという。ちゃんぽんは苦学生の応援のために作られた食べ物であるというドラマを聞くとちゃんぽんがさらに美味しく感じる。
この松が枝地区の前をグラバー通りが通っている。幕末、このグラバー通りを坂本龍馬やグラバー氏が往来していたのだと思うと、ここは歴史の舞台であったことを感じる。グラバー通りを少し進むと「わが国ボウリング発祥の地」という記念碑が建っている。「長崎で発行されていた日本で最初の英字新聞である『ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』に1861年(文久元年)6月22日付けで『インターナショナル・ボウリング・サロン』新装開店の広告が掲載された。これが日本最古のボウリング場である。この史実をもとに、昭和47年より6月22日を『ボウリングの日』と制定されている。因みに、1864年横浜、1869年神戸、1952年東京にそれぞれボウリング場がオープンした。」と案内書に書かれている。
旧香港上海銀行長崎支店は、1994年(明治37年)に完成した重厚な洋館(国指定重要文化財)である。明治から昭和初期に活躍した建築界の偉才と言われた下田菊太郎氏が設計した現存する唯一の遺構である。長崎税関下り松派出所は1898年(明治31年)に新築され、正面を海に向けて建つ煉瓦造り平屋建ての建物で、現在は長崎市べっ甲工芸館として使われいる。
南山手地区は小高い丘になっている。昔の人は、高台に行くには坂や階段を歩いて上って行ったが、現在はグラバースカイロードという斜行エレベーターが設置されている。日本で初めて道路として造られた「斜めに動くエレベーター」である。高低差50mを傾斜角度31度で上っていく。斜行エレベーターを使うと楽々高台に行けるが、私は昔を偲び、あえて階段を歩いて上ることにした。グラバースカイロードの横にある階段を318段上ると南山手レストハウスに到着する。
南山手レストハウスは1864年頃(幕末頃)に建てられた石造り外壁を持つ初期の居留地住宅である。テラスに木柱と石柱を併用した独特の特徴を持つ。現在は、まち歩きの休憩所として活用されている。
南山手レストハウスの庭から対面する山手を見ると山の上まで家がびっしりと建てられているのが見える。長崎出身の版画家、田川 憲は、斜面地にびっしり張り付いた家の景色を「人間の丘」と題して作品を描いている。ここから見る山はまさしく「人間の丘」である。
南山手レストハウスを出て路地を少し行くと、すぐに祈念坂と呼ばれている石畳の坂に出る。この祈念坂を下ったところは、大浦天主堂、妙行寺、大浦諏訪神社という教会、寺院、神社が隣接する場所で祈りの三角ゾーンと呼ばれている場所である。ここは長崎のパワースポットと言われている。この祈念坂は作家の遠藤周作氏が長崎に来たら必ず散策していた場所である。
南山手を歩くと、今も洋館が残されている。建て替えなどで洋館が消えつつあるが、それでも個人で所有されて保存管理されている洋館もあるようだ。南山手は洋館がよく似合う。町の風情として洋館を残してほしいと思う。洋館を眺めながら歩いてきたら「どんどん坂」と書かれた石畳の坂に来た。雨の日に溝を雨水が「どんどん(ドウドウ)音を立てて流れる」ので「どんどん坂」と呼ばれるようだ。
南山手をグルリと回って大浦天主堂に到着。大浦天主堂は、ここ居留地に住む人たちのために建てられた教会で、1865年(元治2年)2月19日に完成した。天主堂としては日本最古の教会である。当時、大浦天主堂は、フランス寺と呼ばれ多くの日本人が見物に訪れていた。プチジャン神父は、興味本位で訪れる日本人に教会を解放し見学することを許していた。そういう中、1865年(元治2年)3月17日、15名ほどの男女が訪れて、一人の中年の女性がプチジャン神父の前に立ち、私たちは神父様と同じ心ですと信仰を告白した。浦上から来た彼らこそ300年近くキリスト教の信仰を守ってきた潜伏キリシタンと言われる人々であった。これが信徒発見である。この仔細はヨーロッパへ知らされ大きなニュースとなった。しかし江戸幕府やその後の明治政府になってもキリスト教禁教政策は引き継がれ厳しい迫害と弾圧が続けられ、その後も多くの人の命が奪われていった。そして、外国からの厳しい抗議を受け、1873年(明治6年)明治政府はキリスト教禁制の高札を撤去した。
今日の南山手の歴史文化探訪は久しぶりの南山手散策となった。南山手は私の好きな散歩道である。洋館を見ながらの散歩は何か異国にいるような感じになり楽しい。また、坂を下りながら見る港の景色がさまざまな表情を見せるのも面白い。南山手が一番長崎らしさを味あえるような感じがする。また近いうちに歩きたい。