ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「華氏451度」読む

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華氏451度というのは摂氏233度にあたり、紙が自然発火する温度らしい。このタイトルが暗示するように、「華氏451度」という小説は読書や本の所有が禁止されたディストピア的近未来を書いた小説である。華氏451度の未来社会においては、本は読むことも持つことも全て禁止されている。そこでは密告制度が推奨され、「本を読む人間は、いつ、どのようなことをするかわからん。そんな奴らを野放しにしておくのは危険極まりない。考える人間なんか存在させてはならん。そもそも、書物などというしろものがあるということは、隣の家に装弾された銃があるようなものだ。だから、本は全て焼き捨てるべきだ。平和な社会を作るには銃から弾を抜き取ることが必要だ」ということで焚書が行われ、本が存在しない未来社会の出現を描いた作品である。

未来社会においては、建物は完全に防火装置を整えており、現在のような意味での消防署という火を消すことを仕事とする役所はなくなった。その代わりに、その役所が新しい仕事を受け持つこととなった。451というナンバーを打ったヘルメットを被った署員(焚書官)は密告者の通報を受けると緊急出動で現場に急行する。そこで、真鍮の筒先をにぎり大蛇のような強大なホースで、石油と呼ぶ毒液をまきちらし、さらに手にした発火器の火花を撒き散らすと、家はたちまちあらゆるものを喰らいつくす炎へと変わって燃え上がる。焚書官は交響楽の素晴らしい指揮者のように喜びに打ち震えながら、あらゆるものを燃え上がらせ、本が存在した現場を、石炭がらに似た歴史の廃墟に変えさせてしまうのだ。451焚書官の仕事は、本の全てを焼き尽くしてしまうことであり、心の平和の監視人であり、公衆にための検閲官であるとされている。

物語は、451焚書官であるモンターグが本に興味を感じたことから発展する。本を読むこと、所持することは一生強制労働になるような重大犯罪である。本来、国民は幼児期からの洗脳教育で、本に対して強い反発と犯罪性を植え込まれている。しかし、モンターグは一人の人物と出会ったことで本に興味を感じ、451焚書官としてもモラル的にも絶対してはいけないこととわかっていたが、現場から一冊の本を持ち帰る。物語は、目覚め始めたモンターグが犯罪者となり、逃亡しながらなぜ本が禁止されるのかを考える旅に繋がっていく。


モンターグは逃亡中に、年老いた学者から現在の社会に欠けている三つのものを教えてもらう。「欠けている一つは、現代人はものの本質を知らないということです。書物がなぜ重要であるかというと、書物の中には本質や核心が示されているからです。本質を知ってもらいたくない、知られたら困ると考える人が禁書政策を施している。もう一つは考える時間を持たないということです。現代人はたくさんの余暇時間を持つがそれを受動的に過ごしている。テレビ室でたくさんの情報がもたらされるが、多くは気づかないうちに、あなた方は常に為政者の都合のいい情報に囲まれている。あなたは思考する時間を持たないように仕向けられている。そして、もう一つは行動力です。つまり、現代人に欠けているものは一つは本質をつかむ知識です。二つ目はそれを消化するだけの思考する時間です。そして三つ目は知識と思考の相合作用から学んだ正しい行動力です」と指摘されてモンターグは自分の過去を振り返る。

この本は、1950年代のアメリカの反共産主義運動を下地にして1953年に書かれたSF小説である。未来を描いたSF小説であるが、2021年の現代の日本社会を思わせる部分もあり愕然とする。
本を禁止することは愚民化政策そのものである。愚民化政策は為政者が都合よく政治を行うために、選挙権を持つ国民を愚かに保つ政策である。愚民化政策を考えるとき、GHQが日本占領にあたってとったと言われる愚民化政策の3S(スクリーン、スポーツ、セックス)を思い出す。日本では愚民化政策がさらに巧妙に密かに行われているのではと不安になる。

菅首相党首討論をなんとか乗り切り国会を閉幕して安堵しているという話が伝わっている。夏の間は、コロナで人がたくさん死ぬかもしれないが、気にしなくて良い。五輪でお祭り気分となり、さらには、GoTo開始を宣言すれば、雰囲気は一気に変わる。五輪をやれば全て忘れるというニュースが流れた。

このことについて、元経産省官僚の古賀茂明氏が興味深い意見を述べていた。『テレビ朝日コメンテーターの玉川徹氏は、「日本人ってそんなもんですかね。もうオリンピックの2週間ですっかり忘れて、あー良かったねって言って自民党に投票するんだろうか」と疑問を述べている。国民はそんなにバカではないと言いたかったのだろう。菅総理は、玉川氏とは逆のことを考えているということだ。菅総理の余裕の裏にあるもう一つの要因。それが、菅氏が安倍前総理から引き継いだ哲学である。
私は、今から7年前の2014年7月18日にこうツイートした――安倍さんの政治哲学:「国民は馬鹿である」 なぜなら、1.ものすごく怒っていても、時間が経てば忘れる  2.他にテーマを与えれば、気がそれる  3.嘘でも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう  私たちは、そんなに馬鹿なのでしょうか?―― 
安倍政権では、とんでもないスキャンダルや失政で内閣支持率が落ちてもすぐに回復し、不利だと言われた選挙でも必ず自民党が大勝した。国民は今もそれほど馬鹿なのか。それとも、こうした経験を経て、覚醒したのだろうか。玉川氏と菅総理、どちらが正しいのか。秋にはその答えが出る。』と書いていた。

菅総理は愚民化政策が功を奏しているから、「国民はスポーツに熱狂してすぐに忘れてしまう」と思っているらしい。玉川氏や古賀氏が思っているように、「国民はそんなにバカではない」ということを信じたい。