ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「時代の異端者たち」を読む その2

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青木理氏と翁長雄志さんとの対談を読んだ。
対談の冒頭、青木氏は翁長雄志について
「周知のように、翁長は那覇市長を長く務め、自民党沖縄県連の幹事長なども歴任した沖縄保守政界を代表する政治家だった。なのに沖縄県知事として名護市辺野古への米軍基地建設に異議を唱え、「オール沖縄」のリーダーとして反対運動の先頭に立った。だから翁長は変節したと多くの者たちが受け止めた。
しかし、翁長は、変節したのは自分ではなく、むしろ本土の政治、特に本土の自民党政治が無惨に変節してしまったと捉え、沖縄に凝縮された戦後の矛盾を必死に訴えつつ、変質してしまった本土の自民党政治に復元を迫っていたのではないかと私は推測する。翁長の言葉を読めば、あながちそれは私の妄想ではないことをお分かり頂けると思う。沖縄の保守が、いや戦後日本の良質な保守政治家が死の3年前に発した遺言を、私たちは咀嚼し続けねばならないと痛切に思う。」と語っている。


自民党政権辺野古への新基地建設を強行していることについて翁長雄志さんは語っている。
「そもそも沖縄は何百年もの歴史を持ち、自然、歴史、伝統、文化を守ってきましたが、1879年(明治12年)に日本に併合されました。私たちはこれを「琉球処分」と言っています。その中で、私たちの先祖は琉球語を禁止され標準語をしゃべるように指導され、立派な日本人になるための皇民化運動を受けてきた。立派な日本人になろうということで頑張ってきて、そして戦争に突入したら沖縄が唯一の地上戦の舞台になった。そこで実に10万人を超す沖縄県民が亡くなりました。

戦争中も日本人になろうとして一生懸命頑張った沖縄の人たちは、言葉が違うからスパイだと判定されたり、あるいは日本軍が負けそうになったら足手まといだからということで、いろんな悲劇もありました。そういうことも経ながらも沖縄は日本の国に操を立てて、一生懸命頑張ってきたにも関わらず、戦争が終わったら、1952年のサンフランシスコ講和条約によって、日本の独立と引き換えに、沖縄は米軍に差し出されたわけです。終戦から1972年に返還されるまでの27年間、沖縄の人々は日本人でもなければ、アメリカ人でもない状況に置かれました。当然、日本国憲法も適用されないし、国会に代表者を送ることもできない、そのような中で、絶大な権力を持つアメリ高等弁務官の統治下のもとで、治外法権の中、沖縄県民は27年間、人権を踏みつけられながらも、子供達の将来を守るため、自治権獲得のために、人権獲得のために、血を流すような努力をしてきたんです。

そうすると、私たちの心の中には別の思いも湧くんです。日本国にあれだけ尽くして、そしてあの27年間は何だったのか。日本は戦後、自民党政権は、私達は戦死者を1人も出しませんでしたよ。平和な日本を作り上げてきましたよ。高度経済成長をやってきましたよ。そう訴える時、沖縄の側から見ると、それをできたのは27年間も沖縄を米軍に差し出して、ベトナム戦争では沖縄から B 52が毎日飛び立って行って、枯葉剤でもなんでも沖縄をベースにしながら戦争をやっていたではないか!沖縄は日本ではないのか!という思いが消せない。そういったことに一切触れずして、復帰から43年も経って、いまだに基地問題が抜本的に解決されないということが大きな問題と思います。

普天間沖縄県民が自ら差し出した基地ではありません。銃剣とブルドーザーで強制的に接収された土地なんです。それが老朽化したから、世界一危険になったから、また沖縄が負担しろというのは、とても承服できません。繰り返しますけど、日本の政治は沖縄の負担というのは全く考えない政治です。現在の日米安保体制はも0.6%の沖縄に73.8%の米軍の専用施設が存在する。さらに普天間返還で沖縄の基地強化を図るなどとても認められません。沖縄だけにこれだけ押し付けておいて、抑え込んでおいて、「日本を取り戻す」とか「美しい国」とか、そういうところに僕は安倍政権の一番根本的な矛盾があるのではないかという風に思っています。

沖縄の基地問題について保守、革新に分かれて基地問題を考えてきました。しかし、沖縄の基地問題イデオロギー問題ではありません。基地問題について、沖縄は何を強く主張するべきかといったら0.6%に74%が置かれていることに対する大変な憤りと矛盾です。今これをしないと、また70年間も、100年間も、将来にわたって子や孫に、いつまでも憤りと矛盾を残してしまう。これではいくらなんでも理不尽でしょうということを強く強く訴えていかなければならないんです。

私の保守政治家という姿勢が変わったきっかけ、転機は8年前の教科書検定です。高校生が使う日本史教科書の検定で、沖縄戦で起きた集団自決について日本軍の強制という部分が検定で削除されそうになりました。自虐史観を批判してきた安倍政権の意向が反映されたものです。
これまで沖縄では、日本軍が手榴弾を渡し、沖縄県民はそれを手に集団自決したことを事実として私たちも聞いているし、全く嘘偽りない歴史的事実であるわけですが、日本政府がそれを教科書から消そうとしたんです。だから10万人が集まって、「それはいかん」と訴えた。史実を曲げたら、これ以降、基地を預かる沖縄としても、その歴史教育にはとても耐えられませんと言って10万人が決起したんです。そこが私にとっては一番の分岐点だったと思っています。その時に初めて私は保守の政治家として反対運動の先頭に立ち、絶対に歴史は曲げてはいかんということを必死に訴えました。

私は、サンフランシスコ講和条約の二の舞のようなことがまたあったらと懸念してしまうんです。何かことが起きたら、日本はまた沖縄を切り離すんじゃないかという恐怖心があるんです。そこまで言うと、沖縄の気持ちを分からない日本の人々は、そんなことするわけないだろうと言うかもしれませんが、それじゃあ、あのサンフランシスコ講和条約は何だったんですか。あれだけ日本政府のために尽くしてきた沖縄を切り離し、米軍の政権下に置いた。その当時と日本国民の価値観は変わっているんですか。0.6パーセントの沖縄に74パーセントもずっと押し付け、名護市長選挙も、県知事選挙も、衆議院の全選挙区でも、辺野古はだめだ、ノーだと言っているのに、一切構わず「粛々」と建設を進めていきますという、あの菅官房長官の姿勢の中に、私は沖縄に対する日本の政治のあり方というのを見るんです。

これをどこからどういう風に変えていったらいいのか。沖縄だけで日米両政府の権力というものを変えることはできないけれども、勝てるという要素はないけれども、しかし、沖縄はそれを主張する権利がある。それこそが日本が変わる道になり、本当の民主主義を確立することにつながり得るし、しっかりとして強固な日米同盟の中からアジアや世界に発信ができるようなものになるんだ、ということでやっているんです。
沖縄の自民党だったのになんで変わったのかと問われることに対しては、やはりこれだけの話をしなければ、分かっていただけないものですから言わざるを得ないんです」と語っていた。

保守政治家の翁長さんが、反対運動の先頭に立つことは、決して変節したわけではない。沖縄の民意を全面的に無視するこの国の姿勢に、民主主義の破壊と危機を感じ、日本に民主主義を取り戻すために立ち上がらざるをえなかったということがよくわかった。
翁長さんは、最終的な結果がどう出るかはわからない。それが難しいからと言って一歩でも下がろうものなら、これは子や孫のために責任をもった政治といえない。どんな困難があってもそれでもめげずにやるというところに人が生きていく価値があるのであって、だから前に進みます。」と語っていた。その翁長さんはもういない。日本に民主主義を確立するために、辺野古に基地はいらないという沖縄の意思、翁長さんの意思を支持して継いでいきたいと思う。