ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

評論「安倍政権とは何だったのか」を読む

東京外大名誉教授の西谷治氏が書いた「安倍政権とは何だったのか」という評論を読んだ。

その中には次のように書かれていた。「8年8ヶ月もの長期に及んだ安倍政権の功罪はしっかりと考えなければならない。これまでの自民党政治家には『自分は権力を正しく使えているだろうか』という節度があった。しかし、安倍氏は『自分は総理大臣だ。だから正しい』との姿勢だった。立法をチェックすべき内閣法制局長官を交代させたことが典型例だ。それまで憲法や法律の解釈は、整合性の観点から勝手に変更できないとされてきたが、そういうことを言わない人に代えた。禁じ手を平気で使った。その結果、閣議決定でなんでもできるようになった。権力行使に歯止めが失われ、政治は底板が抜けて液状化してしまった。アベノミクスも、安全保障法制にしても、この政治手法が可能にした。国会での議論さえ成り立たないので、立法のチェック機能も働かない」

安倍氏が銃撃で亡くなったことが、『民主主義への攻撃だ』『テロだ』と言われると、まるで安倍氏が民主主義を代用していたような話になる。『ちょっと待ってくれ、違うだろう』と思うが『多大な貢献があった』としてあっという間に閣議で、日本最高位の勲章に当たる大勲位菊花章頸飾を贈ると決定された。岸田首相は記者会見で『偉大なリーダーを失った。思いを受け継ぎ、憲法改正など果たせなかった難題に取り組む』と言った。『亡くなった人は尊く、その悲願を達成していく』と言う。しかし、それは民主政治ではなく、もはや宗教だろう。『安倍政治とは何だったのか』と問うこと自体がひつぎに入れられ、花に飾られふたに覆われていく。しかも、法的根拠のない国葬までやって、称えようとする。これでは安倍氏の神格化だ。」

「安倍的な政治がこのままあるべき日本の政治の姿になっていく。それでいいのだろうか?安倍氏歴史修正主義の政治家として登場した。『昔のことは知らない』『いつまで謝り続けるのか』という風潮が、物事の理解の仕方として出ている。そうなると歴史は意味がないことになり、歴史の価値がそがれ、この段階で修正主義の「半分勝利」となる。その先に今度のような事件が起き、安倍政治が顕揚されることになれば、自らの非業の死によって修正は成し遂げられたことになる。皮肉な言い方になるが、歴史修正主義に勝利の道を開いたことが、安倍氏最大の功績なのかもしれない。」とあった。

西谷氏が書いているように、8年8ヶ月の安倍政権はさまざまな間違ったことをやってきた。その一つが内閣法制局長官の交代である。
内閣法制局は政府提出法案の審査のほか、首相に法制的見解を述べるのが任務である。内閣法制局長官は、国会で憲法や法律の政府統一見解について答弁してきた。集団的自衛権については、「行使ができないのは憲法9条の制約があるからできない。わが国は自衛のための必要最小限度の武力行使しかできないのであり、集団的自衛権はその枠を超える」と、9条との関係で憲法上許されないと歴代長官が主張してきた。そして、解釈変更は「できません」 と2度拒んだ長官は代えられた。
内閣法制局は1952年の発足以来、総務(自治)、財務(大蔵)、経済産業(通産)、法務の4省出身者が交代で長官に就いた。法制次長から長官に内部昇格する原則もあった。「順送り」「前例踏襲」との批判もあるが、それは政治による介入を防ぎ、内閣が代わろうとも一貫した憲法解釈を維持するための「防波堤」だった。安倍元首相はそれを変えた。2013年8月、安倍内閣内閣法制局長官に、駐仏大使の小松一郎を充てる前例を覆す異例の人事を閣議決定した。この法制局長官の首のすげかえは、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしてきた歴代政府の憲法解釈を変更し、憲法9条を骨抜きにするための“改憲クーデター”ともいえる動きであった。

歴史修正主義についても同様である。安倍政権が行ってきた歴史修正主義の目的は、「大日本帝国の名誉と威信を守る」ということであった。そのために、過去に大日本帝国が犯した不都合な出来事をなかったことにする。つまり、大日本帝国が周辺の国や地域に対して行った非人道的な行為を否定して、南京虐殺慰安婦問題の事実を書き換える行為を繰り返し行ってきた。そして、これは中国や韓国のみならず、国際的外交関係に大きな傷を残すことととなった。安倍氏の偏狭なナショナリズム歴史修正主義は外交関係に大きなマイナスをもたらしたと言わざるを得ない。

岸田首相は安倍元首相の国葬を9月27日に行うことを決定したというニュースが流れている。私は日本国の基礎を破壊した人間を国葬するなどとても容認できない。歴代総理が亡くなられても国葬はなかなか実施されていないのに、なぜ安倍氏国葬なのか疑問を感じる。戦後の歴代総理の葬儀は内閣・自民党合同葬儀が多いように思う。どうしても葬儀を行いたいのであれば安倍元首相の葬儀は内閣・自民党及び統一教会による合同葬儀が一番ふさわしいと思うが如何だろうか。