
私の山登りの仲間の方と話している時に、その方が、昔、茶道をしていたと言う話を聞いた。その方は、高校卒業後、就職のため上京した。そして、初めての東京で張り切って仕事に取り組んだ。就職した会社はとても忙しく、朝早くから夜遅くまで仕事をしていたそうである。何年も仕事をしている時に、ふと、このままで、自分はいいのだろうかと思ったそうだ。脇目も振らず、無我夢中で仕事をしてきたがこれでいいのだろうか?時間に追われながら、バタバタした毎日を送っているがこれでいいのだろうか?自分は一体何のために仕事をしているのだろうか?自分をもう一度見つめ直したい、自分を取り戻したいという気持ちが起こったそうだ。どうしたらいいのだろうかと思っていた時に、たまたま目にした茶道教室の看板を見て、茶道教室はバタバタした時間とはかけ離れているのではないかと思い、興味を持ち茶道教室に通うことにした。それがきっかけですと話されていた。そして、定年まで茶道教室に通い続け、定年で故郷に戻るとき、茶道教室を辞めた。いい先生に巡り会えばまた始めたいと思ってますと話されていた。
その方にとって茶道は趣味としての楽しみだけでなく、茶道は自分を見失なわないための手段であったと話されていたのがおもしろいと思った。茶道というのは、お茶の作法という認識しかない私にとってその方の話はとても斬新な話であった。あらためて私も茶道に興味を持ち、茶道を知るために「一億人の茶道心講」を読んだ。
本のはじめに次のことが書かれていた「茶道を始めた読者は、茶道観が毎年少しずつ変化することを実感なさるはずだ。毎年、家族の年齢や子供の学年が変わり、自分の職場の地位と責任が変わり、人生の風景が変わる。自分のなかで人生観が茶道観を育て、また茶道観が自分の生活への新しい視点を与えてくれる。人生の喜怒哀楽のそばに茶の稽古場がある。そのような年月の中で、季節や心の潤いが茶道観に結晶する」とあった。この人生の喜怒哀楽のそばに茶の稽古場があるという言葉から茶道は常に自分自身を見つめる所作なのだと私は思った。
この本には、茶道について著者が感じたことや著者の考えなどたくさんの記事が書かれていた。一つ一つ独立しているので気になるタイトルから読んで楽しんでいただきたいと書いてあった。私が気になったタイトルをいくつか記す。
手紙を取り交わす
茶事の案内と礼状は 墨書私信によるのを厳守している。いまの時代だから、日程などの事前のすり合わせを電話やメールですることがないとは言えないが、日程と客組が決まったら、正客と連客の全てに墨書きで案内をしている。客も封書で、出席の意向を返事するべきものである。墨書巻紙が基本だろうが、万年筆の私信でもいいと思う。古くは、その上で前日に席主の元に出向いて挨拶をするのが客の規矩だった。いまでも、まれに前礼をなさる方がいらっしゃるから、招待状の末尾に「前礼は是非ご放念ください」などと書き添える。後礼も封書が基本だと考えている。茶事は一日だけの経験ではない。亭主側は、何週かをかけて道具組を練り、菓子と懐石の都合をつけ、茶室と露路の整備に数日を割いている。客も数日前くらいから席主の趣向を思い描き、茶事の後味を数日間は反芻している。その複層的な時間の楽しみに、手紙を取り交わす時間、手紙を認めつつ茶観の成長を自覚する時間も含まれるはずである」と書かれていた。
この手紙を取り交わすこと自体が茶道の根本姿勢として現れていると思った。何でもスピーディに済ませる現代の価値観にはないものが茶道にあるのだと思った。茶道は心のゆとりがなければできないのだと思った。
座る力
「プロの将棋棋士は正座が必須である。升田幸三九段が、晩年、闘病を理由に、椅子での対局を願い出たところ、将棋連盟理事会は職業棋士の対局に椅子は認められないと決定した。それ以来、将棋は畳での対局が課せられている。茶の稽古も座る力を前提にして初めて成立している。座る力を養うことも稽古の一つである」と書かれていた。日本人の生活様式が変わって、座ることが少なくなってきている。茶道は座る力が必要と書かれていたが、座る力は若い時から取り組まないと高齢では間に合わないと思った。茶道は高齢の私にはもはや無理だと思った。
「茶席の写真を撮らない」という禁忌
「茶席の写真を撮らない」という禁忌は大事な禁忌である。「インスタ映え」という用語が市民権を獲得してしまった。「インスタ映え」は非本質的な見た目第一の価値観である。料理は、味より見た目、観光地も、自撮りの背景1人分だけ綺麗なら、風景の全体感はどうでも良い。そういう価値観である 。「インスタ映え」は表面文化の最たるものである。そういう風潮があるため、茶事や茶会で道具や会記の撮影を警戒しなければならなくなった。
茶事の席主は、一つ一つの「道具自慢」や「道具披露」で茶道具を選んでいるわけではない。特定の正客と特定の機縁を念頭に、この掛軸、茶入、茶杓がどのような会話を誘発するかを想定しながら道具を選ぶ。正客との過去のつきあいや恩愛を考え、茶道を通じて、正客との新しい会話と心の交流を生み出そうとしている。従って、茶室の場は、炭と香の薫りや茶道具とともに正客がそれに対してどう反応してくれるかを待っている場である。茶室の所作を含めその一期一会が茶道である。連客は、その緊迫した交絡の陪席者としてそこに呼ばれている。その臨場感が茶室の本質であるが、カメラにはそれは映らない。それらの写真がインターネット空間に漏れ、道具だけを見て「さすが」とか「案外」とか無責任な論評にさらされたくないと書いてあった。「インスタ映え」の表面文化では茶道の本質は捉えられないからそのように思われるのは当然である。
「一億人の茶道心講」を読んで、ますます茶道に心惹かれる。しかし、正座という座る力が茶道に求められていることを思うと、もっと若い時代から始めるべきであったと思う。茶道は一人でもできるし、もちろん二人でも、それ以上でもできる。高齢の身ではもはや間に合わないが、機会があったら山の仲間にまた茶道の話をお聞きしたい。