ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「長春の惨劇『チャーズ』」を読む

 この本の正式タイトルは「もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇『チャーズ』」である。
 ジェノサイドとは、特定の民族、人種、宗教、国民集団の全部または一部を殺害・破壊する意図を持って行われる犯罪行為をいう。著者の遠藤誉さんは、小さい時この長春市でジェノサイドの経験をした方である。遠藤さんは、長春のジェノサイドの数少ない生き残りである。遠藤さんはいう。「亡くなられた方たちはゴミくずのように捨てられ、チャーズの事実そのものが葬られていったなか、私はこのことを人類の歴史に刻み込む使命がある」と言って、この本を上梓された。


 遠藤誉さんは1941年(昭和16年)、旧満洲国の長春市に生まれ、1953年(昭和28年)日本に帰国した日本人である。遠藤誉さんのお父さんは戦前、旧満州国長春市で製薬会社を経営していた。日本が戦争に負け、ソ連軍の参戦によって、日本の開拓団はソ連軍の無差別殺戮にあい、生き延びた人たちも長春に逃げてきたが、収容所で寒さと飢えで亡くなる毎日が続いた。

 ソ連軍が撤退した後、紹介石の国民党軍が長春を支配し、政局が少し落ち着いて、1946年(昭和21年)の夏から1年かけて「百万人遣送」という、旧満州国にいた日本人約百万人の日本への強制引き上げが行われた。しかし、遠藤誉さんのお父さんは、薬を製造する技術者として、国民党政府に「留用」され帰国が許可されなかった。「留用」とは、技術者などを政府機関が引き止めて雇用することである。遠藤誉さん家族はお父さんと一生に中国に残ることとなった。ところが、政局が落ち着いてきたのも束の間、日本人の強制引き上げがほぼ終わった47年秋から革命戦争が始まり、長春市でも盛んに戦闘が行われ、毛沢東率いる共産党軍によって長春は完全に包囲され、食料封鎖されてしまった。長春市では、たちまちが餓死者が続出し、大通りには餓死者が転がったまま放置され、その周りを犬がうろつき、人肉で肥え太った犬を人間が殺して食べるような日常になった。遠藤家でも1番下の弟がこの時、餓死した。

 この時、長春市内には国民党軍がおり、共産党軍は長春市を丸ごと鉄条網で包囲していた。その包囲網は「チャーズ」と呼ばれていた。遠藤家はこのままでは全員餓死してしまうと考え、共産党軍が支配する解放区に行くことを決めて、長春を脱出することにした。長春から脱出するには国民党側のチャーズの門をくぐり抜けていく必要がある。国民党側の門は長春から出ようとする多くの韓国人や中国人や残された日本人などで混乱していた。  

 遠藤家は多くの中国人や韓国人と共にこの門を潜り抜けて行った。この門を出ることさえできれば、その外にはきっと共産党が支配する解放区があり、そこには食料が豊かにあるものと一縷の望みをかけていた。しかし、その期待は見事に裏切られた。包囲網はニ重になっていて、共産党軍側の門は、1〜2キロ先にあり、しかし、そこは閉ざされたままだったのだ。多くの人たちと共に、遠藤家の人たちは共産党軍と国民党軍の中間地帯に閉じ込められたのである。そこは野原なので、水もなければ、食料もなければ、トイレもない。しかも、どこに行っても地面は餓死体で埋め尽くされ、餓死体の横で、上で野宿するしかなかった。そこは、この世のものとは思えない地獄絵図が展開された場所であった。今まで何人の人がここで餓死したかわからないが、木の皮も全て剥がされ、草も葉も食べ尽くされてなにもない。ただ、餓死するのを待つのみの場所であった。

 遠藤誉さんがそこから脱出できたのは、4日目の朝、解放軍が遠藤誉さんのお父さんを解放軍にとって必要な技術者として認めたからである。4日目の朝、遠藤誉さんは記憶を失っていた。またその後も、遠藤誉さんは恐怖のあまりことばを話す能力を失っていた。

 長春市の惨劇について、中国政府の文献では「国民党の圧政により、12万人ほどが餓死した」とのみ書いてあり、中国共産党軍が食糧封鎖をして餓死させたと言う事実は書いてない。国民政府側の発表では、長春における餓死者の数は60万人から65万人となっており、正確な数字は今もわからない。いずれにしても数十万人の規模であることは確かであるといわれている。

 私は、この本を知人から聞いて読み始めたが、あまりの惨劇に読むのを何回も躊躇ってしまった。著者の遠藤誉さんは6歳の時に、この惨劇を体験した。山のように積まれた死体の山の前で、お父さんが「救われてくれ」と言いながら合掌したのを見た。餓死者が至る所に放置されている広場で、餓死者のすぐ横で寝て、自分も餓死者になりかけていた時に、かろうじて生命を繋いでそこを出ることができた。しかし、そのPTSD(心的外傷、トラウマ)は凄まじものであったと語っている。そのPTSDを乗り越えるには、どんなに苦しくても文章に書き出すことしか乗り越える方法はないと考え、自分の使命と思って、この本を書き続けたと書かれていた。

 1947年長春市でジェノサイドが行われたことは誰も知らない。あの時、国民党軍と解放軍との戦いの中、食糧封鎖された長春市で餓死させられ、ゴミのように捨てられた何十万の人がいたのに、そのことさえなかったことのようにされている。

 あの時、父は死体の山に向かって「救われてくれ」と合掌した。私は生き残った。誰かが餓死した人たちのことを書かないと、みんななかったことにされる。あの人たちの魂は救われない。そして、私は本を書く。この本は彼らへの鎮魂であり、この本は彼らの墓標であると書かれていた。