ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「飢餓俳優 菅原文太伝」を読む

解説に次のように書かれていた。
「菅原文太の人生には常に暗い影がつきまとう。幼少期に、母親が出奔して家庭崩壊。大学は除籍。俳優業は脇役ばかり。じりじりするような焦りのなか、やっと掴んだ『仁義なき戦い』で不動の地位を築くも、最後は出演を拒否してしまう。誰も信用せず、盟友と決別し、約束された成功を拒んだ男が生涯をかけて追い求めたものは何だったのか。盟友の内面に迫る傑作評伝」とあった

 菅原文太さんは私の大好きな俳優さんである。特に「仁義なき戦い」は若い時見て以来、何度も見ている。俳優菅原文太は私の憧れの人であった。しかし、大好きな文太さんであったが、その人となりについて個人的なことについてはほとんど何も知らなかった。だから、タイトルにある「飢餓俳優」という意味がわからなかった。しかし、文太さんの生い立ちなど読んでいくにつれ、飢餓俳優の意味が少しづつわかってきた。そして、ますます文太さんの人間性に惹かれた。

 この本の中で、文太さんの成育に一番影響を与えたことは母親との別れであったと次のように書かれていた。
「菅原文太は1933年8月16日宮城県仙台市で生まれた。文太が、3歳の時、母親が子供たちを置いて家を出るという形で、両親が離婚した。この別れが、幼い文太の心に深い傷を残す。ある日、突然姿を消した母を思い、何度涙を流したことだろう。<俺だってガキの頃は、それはいろいろ切ないことがあったし、しんどいこともあった。そういうことによって、普通のノーマルな人に比べれば、いろんなプレッシャーを精神的に受けていると思うよ。親が別れるというのは--------それを超える裏切りは、まぁめったにないからね。(中略)その傷から立ち直るのに深いやつは10年20年かかる>」とあった。

 幼少期に母親との別れという深い傷を受けた菅原文太さんは、東京での学生時代、1958年新東宝にスカウトされたことをきっかけに映画俳優の道を歩み始める。しかし、新東宝に在籍して4年後、1961年新東宝が倒産したため、28歳の夏、松竹に移籍した。しかし、松竹に移籍して俳優業を続けることはできたが、松竹では脇役しか与えられず、俳優としての活躍の場は与えられなかった。ここで役者業の下積みを積んでいった。松竹に移籍して6年、34歳になった1967年秋、高倉健、鶴田浩二の二枚看板で興行収入を伸ばしていた東映に移籍した。そして、深作欣二監督始め多くの監督の知遇を得て「仁義なき戦い」など数多くの主役作品を演じ、脚光を浴びトップスターへの道を確実に歩んでいった。

 文太さんには、3人の子供さんがいる。息子さん一人と娘さん二人である。長男の薫さんは21歳になった1991年、芸能界復帰を決め、芸能活動を再開した。薫さんの芸能界復帰について、父である文太さんは本人の意思を尊重して応援した。
 
 60代半ばを過ぎた1998年、映画界から距離を置くようになった文太さんは飛騨高山の別荘に生活の拠点を移し田舎暮らしを始めた。文太さんご夫妻は静かな環境で四季折々の自然を楽しみながら、薫さんの活躍を楽しみにして生活を送っていた。そこに突然、訃報が届いた。
 2001年10月23日、薫さんが踏切事故で亡くなったという報せであった。享年31才であった。当然ながら、文太さんの悲痛は筆舌につくせないものであった。

 それでも、その後の文太さんは農業を始めたり、政治的活動を行っていった。政治的活動のきっかけになった発言がある。自民党議員や著名人との会食中、元自民党議員の武藤貴也が「法律を改正し、自衛隊を送り、武力を以てしても、中国船舶を追い返し、国土(尖閣諸島)を守らなくてはいけない。これでは、日本の名誉が損なわれる」と発言したのに対して「君が行くのか。そこで一発でも銃弾が飛んだら戦争に発展し自衛官の命が失われる。それでもいいのか? 名誉など後でいくらでも取り返せるが人命はそうは行かない。君は何も分かっていないんだ。帰れ」と一喝した。戦争を知る文太さんは、戦争を軽々しく口にする議員の軽薄さが許せなかったようだ。
 2014年11月1日、文太さんは、沖縄県知事の翁長剛さんの知事選挙応援のため沖縄に来た。そこで文太さんはスピーチをした。
「今日は自分から立候補してピッチャー交代、知事交代ということで押し掛けてきました。政治の役割は2つあります。1つは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つはこれが最も第一です。絶対に戦争をしないこと、私が小学校の頃軍国少年でした。なんでゲートルを巻いて、戦闘帽を被って竹槍を持たされたのか、今振り返ると、本当に笑止千万です。
 仁義なき戦いに、裏切り者の山森、覚えてらっしゃらない方もいるかな。最後に、「山森さん、弾はまだ残っとるがよ。一発残っとるがよ」と言うセリフをぶつけた。その伝で行くと、「仲井眞さん、弾はまだ1発残っとるがよ」とぶつけてやりたい。
 沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も風も、全て国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。辺野古もしかり!勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ」

 だが、応援演説を終えて、帰途に着いた文太さんは、体力、気力を使い果たしていた。帰京後受診し、医師の判断によりそのまま入院。入院から2週間後、転移性肝ガンによる肝不全で永眠した。2014年11月28日、享年81才であった。

 功成り名を遂げた多くのトップスターは、晩年を優雅に暮らしコメントを求められると「日本に生まれて本当によかった」と国を称えることに終始する人が多い中、文太さんは、「こんな日本ではいけない」と批判し続けてきた。権力に追従する楽な道はいくらでも選ぶことができたのに、あえて権力に立ち向かっていった。「飢餓俳優」という言葉通り、最後まで飢える者の如く、何ものかを求め走り続けた。求めたものは心からの安らぎだったかもしれないと思った。