ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「豊かさとは何か」を読む

 暉峻淑子さんの著書「豊かさとは何か」を読んだ。そして、著書の中には、多くの日本人が心の中に抱えている現状に対する不満とそれへの解答が書かれていると思った。以下にその内容の一部を記す。

 「日本では、今では、経済大国という言葉を聞かない日はないほどになった。しかし、カネとモノをひけらかして、金持ちぶりを自慢し続けるということの中に、実はそれしか自慢するものがない社会の貧しさを、私たちは自覚せざるを得なくなっているのではないだろうか。日本人は、すべてを経済に特化するために、他のすべてを捨ててきたからである。
 例えば、「あなたの国で誇りに思う事は?」ときかれたとき、スウェーデンの若者の62%が「福祉」と答えている。日本で「福祉」と答えたのは6%である。西ドイツでは経済の発展と同時に、国民の住宅や都市環境が補助によって美しく整備され、社会資本や社会保障制度の充実とともに、文化的事業に対しても行き届いた公的補助が行われている。

 日本の豊かさは、実は根のない表面的な豊かさに過ぎず、板子1枚下には地獄が口を開けており、砂上の楼閣のようなもろさに支えられたぜいたくが崩れ去る予感を、多くの日本人が心中ひそかに感じているのではないかと思われてならない。例えば、もし寝たきり老人になったら・・・、もし収入が減って住宅ローンが払えくなったら・・・、もし幼い子を抱えて夫と離死別したら・・・、などと。
 いざとなっても、誰からも助けてもらえない不安と、人並みから排除されてしまう不安とで、強迫神経症のように、果てしない飢餓感に追われる日本人は、もっともっととカネを貯め続けているのではないかと、私には思われてならない。

次の意見は、日本についての西ドイツの学生の意見である。
私たちは、南アフリカから輸出される商品を、その背後にある人種差別社会のゆえに、ボイコットする運動をしています。しかし、考えてみると、日本から輸出される安い自動車やコンピューターの背後にも同じ問題があります。自動車を作っている下請け労働者の長い労働時間やウサギ小屋の住宅。少ない有給休暇や、退職した後の老人福祉の貧しさ。そんな犠牲の上に作られた日本の商品と競争するためには、ヨーロッパの国も同じレベルにまで労働者の生活を落とさなければなりません。しかし、そうすれば、人々が営々と何百年もかけて積み重ねてきた基本的人権や福祉の社会は、経済競争のために崩されてしまいます。日本の方が、国際社会の進歩に合わせるべきでしょう。日本人が、日本の中だけで生きていくのなら、日本人が好きなように、長時間労働でも何でもすれば良いけれど、国際社会の中で生きていこうとするのなら、国際社会のルールに従って欲しい」

老人福祉については次のように指摘されていた。
欧米諸国では福祉サービスの質の高低は、人手の多少にかかっていることを熟知している。心を込めた、行き届いた介護なしには、豊かな人生の最後も、豊かな死もありえないという前提で福祉政策は進められている。
ヨーロッパ諸国における人口あたりのホーム・ヘルパーの数は、ノルウェーが日本の52倍、スウェーデン44倍、デンマーク24倍、オランダ11倍、イギリス10倍である。
 デンマークのカルンボー市は人口2万人、岐阜県池田町は人口2万2千人で、町の人口はほぼ同じである。65歳以上の高齢者がカルンボー市には3千人いて、池田町には2千7百人いる。これも、ほぼ同じと見て良い。ところが、カルンボー市には訪問ヘルパーが百十人いるのに、池田町には3人しかいない。訪問看護婦は、カルンボー市には15.5人いるが、池田町には1人だけで、しかも老人ホームの職員である。
 政府は、簡単に年金額の国際比較をして、日本の年金額の水準は国際並みというが、百歩ゆずって、その平均の数字を認めるとしても、そのわずかの年金で、住居費も、訪問看護の費用も、医療費も払わねばならず、しかも病院から追い出され、入る養護老人ホームもないという日本と、公的補助で老人への福祉サービスが整っている国とでは、年金の持つ意味が全く違う。

 私たち日本国民は、板子1枚下は地獄であることを知っているので、安心できず。せっせと貯金に励み、それでも安心できないのだ。それに加えて落ちこぼれた人を蔑視する政治の風潮がある。
 北欧なみ老人福祉を実現するのに必要な予算は4兆5千億円足らずである。企業の交際費として表に出ている金額とほぼ同額である。国の豊かさ、財界の豊かさは、一人ひとりの豊かさを保証する豊かさではない。社会保障や住宅問題の貧しさを通して知ることができるのは、人間にとって最も大切な生活の土台が保障されていないことである。そのために生活は崩れやすく、もろくなっている。保障がないために貧富の格差が緩和されず、貧しいものは自己責任として社会から落ちこぼれ蔑視される。それを見ている人々は、落ちこぼれないために必死に働き、貯める。これでは、ゆとりも心の安らぎも得られない。その国の豊かさは、最も困窮している人に対してどのような処遇をしているか、によって証明される、というが、まさにその通りである。強者には政治はいらない。弱者のために政治は必要なのである。
 中曽根内閣以来の日本における行政改革・民活路線は「自然環境の保護とか、福祉社会とかは、経済価値を減らし、怠け者を作り出し、日本を先進国病にする。経済の活力を維持するためには、カネはカネを産むことにのみ使われるべきで、国民の一人ひとりは、自分の生活に自分で責任を持たなければならない」というものだった。
豊かに憧れた日本は、豊かさへの道を踏み間違えたのだ。富は人間を幸せにせず、かえって国民の生活を抑圧している。富は分配されず、福祉の保護を願い出るものは辱しめられる。「老人のためにカネを使うのは、枯木に水をやるようなもの」といった政治家もいた。民主政治は、カネの力の前に身売りされてきた。

日本は経済大国であるというが、しかし、決して豊かな国ではない。豊かな社会を作り出すために、まず社会的に必要な事は、社会保障、社会資本を充実させることであり、それとともに、公共の福祉を守る法律、制度を確実なものにすることである。例えば、老人、児童、障害者福祉法、労働基準法、住宅基本法(日本にはない法律)などがこれにあたる。これらは、個人の基本的人権を保障するために、国が、公的に、何をなすべきかを定めたものをである。つまり、社会の共通資本として、物的な条件を整えるとともに、生活の福祉を実現するための諸制度が、車の両輪として動いていなければならない。それが豊かな社会を作るための条件である。

暉峻淑子氏が述べていることを実行しないと豊かな国にはなれないと思った。と同時に、長いこと政権与党であった自民党は真逆のことをやってきたのだから国が豊かになるはずはないと思った。その意味においても自民党政治を早く政権与党の場から引き摺り下ろさなければならないと思う。