ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

フェートン号事件

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イギリス軍艦 フェートン号

長崎港の警備強化を図るために、さらに魚見岳台場などが増設されるきっかけとなったフェートン号事件について考える。

 

事件の概要

文化5年8月15日(1808年10月4日)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフェートン号は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員2名を小舟で派遣したところ拉致された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。

 

オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは商館員の生還を願い戦闘回避を長崎奉行に嘆願した。長崎奉行松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する鍋島藩福岡藩の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1の100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩熊本藩久留米藩大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。

 

翌16日、フェートン号は人質の1人を釈放して薪、水や食料の提供を要求し、供給がない場合は港内の船舶や長崎の町を焼き討ちすると脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとした。この際、康英自身は武力衝突になったとしても相手側の要求をあくまでも退ける姿勢を示していたが、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの説得もあり、やむなくフェートン号の要求を受け入れるに至った。

 

17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。

 

事件の結果

日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されたが、イギリス船フェートン号が人質を解放して長崎を去った17日、長崎奉行松平康平は他国の脅迫に屈してしまった国辱の責任を取り、切腹して自害した。享年41歳。

 

17日、長崎奉行松平図書頭康英が責任を負って自害したことを知ると、長崎の人たちは深い悲しみに包まれたという。

 

フェートン号事件を考えるとき、いつも松平図書頭康英のことを思う。彼からトップに立つ者の責任のとり方と真っ直ぐに筋を通す覚悟を教えられる。